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2009年10月28日

まとめ

 今日は定休日ですので、先日東京の防衛研究所で調べた事をゆっくりとまとめてみたいと思います。

 父が久留米の戦車第1連隊に入隊したのが昭和17年の4月10日、21歳の時でした。その頃第1連隊の主力部隊はシンガポール占領やビルマ侵攻作戦等に従軍して大陸に展開し、連隊はその後満州に駐屯しました。そしてこの部隊は20年3月に本土防衛の任を受け同年4月9日に新潟港着、7月10日に栃木県佐野に移駐して終戦を迎えます。

 一方久留米の留守部隊は、第一連隊の補充部隊として新たに戦車18連隊を編成しました。これが昭和17年6月24日の事で、この中に父の所属した久留米西部第49部隊があったと思われます。この18連隊は後に九州防衛の任に就き、宮崎県綾町で終戦を迎えます。

 本来久留米の戦車部隊に入隊した兵隊さんは三年間の教育を受けてから実戦部隊に配属されていたそうですが、父の場合は入隊8ヶ月後の昭和17年12月12日に慌しく千葉戦車学校に分遣を命じられ、同22日に入校しています。

 父が入隊した昭和17年を振り返れば、6月5日にミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊が壊滅的な打撃を受け、8月7日にはガダルカナル島に米軍が上陸して日本軍の消耗戦が始まった年に当たります。おそらくこの頃から「戦車無き戦車部隊」の苦闘が始まり、前線では補充戦車の到着を今か今かと待ち望んでいた事でしょう。しかし送ろうにも戦車が無い、数少ない戦車を輸送しようにも制空制海何れも連合軍に支配されつつある状況ではそれもままならなかったと思います。

 この様に戦況が徐々に悪くなって行った昭和17年12月、千葉陸軍戦車学校内に少年戦車兵学校が開校し、少年志願兵が次々と入校したそうです。父はこの兵学校の開校と時を同じくして分遣を命じられたことになるのですが、自らも学び、また少年兵への指導的な役割を担っての分遣であったのかもしれません。4月10日に二等兵として入隊した父は、同年10月10日に一等兵となり、そして12月に千葉へと着任しました。この戦車学校は下士官養成学校として昭和11年に開校されたそうですが、敷地面積は約7万坪もあり、戦車設備に関する基礎的な学術や戦術、整備を学ぶ為の学校でした。

 そして昭和19年7月6日、本土決戦に必要な戦車部隊として、戦車第28連隊がこの戦車学校の教導隊を基幹に編成されました。その前年、昭和18年8月10日に上等兵となっていた父は、編成とほぼ同時の7月10日にこの28連隊に転属となっています。この部隊は本土防衛の内、敵軍の九十九里浜への上陸を想定して編成された部隊でしたので、防衛の為の壕や陣地構築の任に当たったようです。また首都圏への空襲が激しくなると、亡くなった方や瓦礫の処理に頻繁に出動していたと父に聞いたことがあります。

 この昭和19年、陸軍の軍需動員計画の戦車整備数は末期的な状況になっています。軽戦車・中戦車・水陸両用戦車・砲戦車何れもゼロ、四式中戦車・五式中戦車・10糎カノン砲戦車各5両、装甲兵車400両。調べた本の筆者は、こう述べています。

 『軍需動員で見る限り、日本戦車部隊はこのあたりで「生涯」を終わっていた。こんな戦力で、アメリカ軍の機甲戦力とまともにぶつかる本土決戦にならなくて幸いであった。ともあれ、日本に戦車隊が出来て20年余、機甲兵種生まれて僅か4年、日本戦車部隊は見る影もない姿に転落して終った』。父の言っていた、「戦えば即刻全滅」の言葉を実感致しました。

 昭和20年3月1日父は兵長となり、幸いな事に本土決戦のないまま終戦を迎えました。同9月1日に復員命令が出され、9月15日に故郷に復員しています。この間、9月10日に伍長に昇進していますが、おそらくこの時期にはほとんどの兵隊さんが一階級特進となった事でしょう。

 こうして父の軍歴を調べてみて色々な事が分かりましたが、21歳の青年がもう直ぐ25歳になろうとする3年余りの年月を軍隊で過ごし様々な体験から一体何を思ったのか、今となれば確かめる術もありません。只、生前口にしたことのある「戦車の中で死ねたら本望だと思っとったなあ」の言葉に、当時の世相を垣間見るだけです。

 今回の旅は、大変収穫のあるものとなりました。しかし、果たしてそれを父が喜んでいるのかどうか、考えても答えは見つかりません。「余計なことを」と、笑っている父の顔が浮かんで参ります。




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Posted by 府中店長 at 13:14Comments(0)父親探しの旅

2009年10月26日

靖国に思う

 10月24日、同行のお二人と一緒に国分寺市にある出身大学を訪ねました。国分寺は坂の多い町、大学も高台にあり、キャンパスや大学周辺を歩き回って足がパンパンに。

 午後一時頃に国分寺駅前のお店で昼食、18時30分発の飛行機までどうしようかと相談し、私は念願の靖国神社参拝をまだ終えておりませんでしたので自分は靖国へと申しました。するとK先輩もY君も、それなら一緒に行こうと言ってくれましたので道案内を頼みました。

 国分寺から中央線で中野まで、中野から地下鉄東西線に乗り継いで九段下へ。地下鉄の駅を出て歩くと、直ぐ目の前に靖国神社がありました。



 神妙に参拝した後、敷地内の遊就館と言う資料館に入ってみました。ここには先の大戦で亡くなった方々の遺品や遺書が数多く展示され、中でも最後の方には全国の遺族から託された遺影が部屋中に張り巡らされていました。その数に圧倒されつつ名簿を見ましたが残念ながら伯父の名は無く、深く一礼をしてその部屋を出ました。

 そして最後の展示室に入った時、私の目に飛び込んできたのが一台の戦車でした。「97式中戦車」、父が乗っていたかもしれないと先日の防衛研究所でその名を見つけた戦車が目の前にあるのです。指揮者一名砲手二名、運転手一名の計4人が乗り込んでいる解説図に見入りました。

 そして不覚な事に、「お父ちゃん、あんたひょっとしてこの戦車に乗っとったんね?」と心の中で父に問い掛けた途端、涙が溢れました。今回の上京の最後の最後にこの戦車の姿を見ることが出来、父親探しの旅の終わりに最高の贈り物を頂いたと感謝致しました。残念ながら撮影禁止でしたので、私はその姿を目に焼き付けようと暫くその戦車の前から離れる事をしませんでした。

 青年は父母や兄弟姉妹を、若き父は妻や子供達を、そして日本の国を守ろうとして散った数多くの英霊を祀る靖国神社。この地に立ち、A級戦犯がどうだとか軍国主義がどうだとか言う前に、自分の国のために亡くなった方達の霊前に頭を垂れることは日本人として至極当たり前の事だと思いを新たにしました。

 当然の様な顔をして「参拝せず」と言い放つ政治家、そしてその態度を肯定するマスコミの皆さん、どうか貴方達もその遺書や遺品を目にして下さい。今の私達があるのは、全くこの人達のお陰なのですから。




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Posted by 府中店長 at 08:59Comments(0)父親探しの旅

2009年10月22日

恵比寿 防衛研究所

 昨日、予定通りに出雲空港を7時35分発の第一便で上京しました。飛んでる時間は約一時間、早い事は確かに早いのですが、やっぱり余り気持ちの良いもんじゃありませんねえ。出雲の神々のお力で万死の中に一生を得、無事羽田空港に到着しました。

 到着後、宿泊先の新橋のホテルに荷物を置き、いよいよ恵比寿にある防衛省防衛研究所に向かい、到着したのが11時過ぎでした。羽田から乗る電車を検討するのに15分、新橋でのホテル探しが30分、恵比寿で道を一本間違えて15分、都合僅か一時間のロスと言う上々の滑り出しです。



 それから閉館時間の4時30分まで調べました。係員の方に相談して貸し出して頂いたのが次の3冊です。「軍服の青春・陸軍編」「日本陸軍兵科連隊」「日本陸軍戦車部隊略史」。

 調べて分かった事は色々ありましたが、中でも日本陸軍における戦車部隊への考え方に唸ってしまいました。そもそも戦車部隊は英軍と仏軍で始まったそうですが、イギリスは戦車部隊を機動力と火力を持った、それ自体が攻撃力を持つ部隊と考えました。一方フランスは、あくまでも歩兵を支援する部隊と考えたようです。日本陸軍は歩兵の軍との認識から、当時の軍部は仏軍の考え方に同調し、戦車部隊をそれ程重く見ずに戦車の開発を怠ってしまったそうです。

 その結果、昭和18年ごろには世界の戦車と日本の戦車とは比較にならないほどの開きが出来、敵の47ミリ砲に対しこちらは37ミリ砲。新たな生産もままならず、昭和19年には所有する戦車がほとんど底を突いた状態にまで落ち込んでしまったそうです。父が生前、「敵が九十九里浜に上陸したら、3時間でこちらは全滅しただろう」という言葉をその時思い出していました。父の居た部隊についてはまた書きます。今日はこれから千葉に向かう事にしています。

 ホテルの窓から見える赤い建物、あれって東京タワーか?






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Posted by 府中店長 at 08:36Comments(0)父親探しの旅

2009年10月14日

一週間後、上京

 来週水曜日から、三泊四日の旅に出掛けます。水曜日は定休日、木・金・土は休暇を取っての上京となります。毎年お盆の14日と15日、正月は元旦と2日にお休みを頂いていますが、こんなに続けて休暇を取るのは父が亡くなって以来の事になります。

 当日、21日は5時56分発のJRで松江駅まで行き、松江駅からは出雲空港までの連絡バスを利用します。そして出雲空港7時35分発の一番便に乗り、羽田空港着が8時55分の予定になっています。

 羽田到着後に宿泊先のホテルがある新橋へ、そしてホテルに荷物を置かせて貰い身軽になって恵比寿にある防衛省防衛研究所の図書館(史料閲覧室)に向かいます。新橋も恵比寿も初めての土地ですが、まあ何とかなるでしょう。

 防衛研究所には11時頃には到着出来るでしょうから、史料閲覧室の閉館時間の16時30分までは5時間半もあります。これだけあれば自分の調べたい父の部隊(戦車第一連隊第49部隊・千葉陸軍戦車学校・戦車第二十八連隊)のことは分かるでしょうが、万一のために翌日の午前中を予備日に充てる事にします。

 翌22日は千葉に向かう予定です。二十八連隊があったという習志野市、そして戦車学校があった千葉市稲毛区、更に時間が許せば首都防衛隊として父達の部隊が守ろうとした九十九里浜にも行ってみたいと思っています。

 そして23日、私の出身大学のOB会設立100周年の記念式典が18時から開催されます。場所は虎ノ門にあるホテルオークラ、昨日入場券が郵送されてきました。この日、私が是非行ってみたと思っているのが靖国神社です。

 靖国神社については色々と難しい問題もあり、特に政治家の参拝には賛否両論がある事も存じております。只私は今日の日本国の礎となられた方々の霊前に頭を垂れ、感謝の祈りを捧げることは国民として当然の事だと思っていますので、母の兄、伯父が祀られる靖国神社にはその思いを持って参拝したいと考えています。

 最終日の24日、帰りの飛行機までの時間は大学のある国分寺市に行く予定にしています。生憎と土曜日で大学はお休みですが構内への立ち入りは可能だそうですので、残念ながら今回の上京に参加出来なかった先輩方のためにも写真をバンバン撮ってくるつもりです。国分寺駅、駅から大学までの道、そして大学構内にはそれぞれの先輩方の思い出が一杯詰っていることでしょうし、それは私も全く同じです。

 そしてその日の最終便、18時30分羽田空港発に搭乗し出雲空港着が19時55分、家に帰るのは夜の9時頃になりそうです。三泊四日の今回の旅、せっかく休暇を貰って行くのですから有意義なものにしたいと願っています。




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2009年10月02日

歌に涙す

 一昨夜、妻と二人でテレビの歌番組を見ていましたら、ある歌を聞いている時に思わずじわっと涙がこぼれてしまいました。近頃どうも涙腺が緩む事が多いのですが、それは「手紙」と言う曲で、今朝ネットで検索して樋口了一と言う方が歌っている曲と分かりました。歌詞を目にしていますと、長らく糖尿病を患い最後は認知症にも苦しんだ亡き父の顔が浮かんで参ります。

 さていよいよ10月、今月下旬には上京の予定です。出身大学のOB会が100周年を迎えて開催する記念式典に出席の予定ですが、合わせて私の父親探しの旅の締め括りともなる東京行です。父が戦時中に福岡県久留米市の部隊から転属となった千葉陸軍戦車学校と、終戦まで所属した戦車28連隊の情報も少しずつではありますが入手する事が出来ました。

 千葉陸軍戦車学校の跡地には、現在千葉市稲毛区役所などの建物が建っているそうです。その稲毛区役所総務課さんに戦車28連隊の跡地はどうなっているのか、また両施設の資料館のようなものが千葉市に存在するか否かをメールで問合せをしました。そうしましたらありがたい事に、ご丁寧にも封書で返事を頂きました。

 両施設の資料館等は存在しない旨と、28連隊の事はこちらでは分からないから東京目黒区に在る「防衛省防衛研究所」に問い合わせをしたらどうかと住所と電話番号を教えて頂きました。また同封の「千葉空襲写真誌」に戦車学校の在った場所と写真が掲載されていましたので、それこそ食い入るように見入りました。改めまして、稲毛区役所総務課のご担当者様に衷心より深く感謝を申し上げます。誠にありがとうございました。





 一昨日の定休日、教えて頂いた「防衛省防衛研究所」に電話をして伺いましたら、そこには旧陸軍の資料が国内では一番揃っている図書館資料室があり閲覧は可能だそうです。対応して下さった方に更に尋ねますと、戦車学校の資料は沢山あるが28連隊のそれはほとんど無く、只おそらく28連隊は千葉県習志野市にあったはずだと教えて頂きました。

 そちらに伺い、ついでに久留米の戦車第一連隊の資料も拝見してから両施設の跡地に行ってみたいのですがと相談しますと、「お調べになる内容にも依りますが、丸一日、どうかすると二日は見ておかれた方が良いでしょう」とのお言葉。

 う~ん、一泊二日では無理なのかなあ?東京の友人S君から飲みのお誘いも受けている事だし、この際二泊三日、いやいやこれが最後の東京行になるかもしれないからトコトン調べるためには三泊四日か?とこの様に、思いは千々に乱れます。




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2009年09月01日

千葉陸軍戦車学校と戦車第二八連隊

 今秋、出身大学のOB会の100周年記念式典出席の為、島根支部会員として上京の予定があります。現在出席者を募集中ですが、島根から東京まで出掛けるとなると中々大変で、今のところ手を挙げているのは支部長のK先輩、後輩のY君、私の三名です。日時は10月23日17時から、場所は東京虎ノ門にあるホテルオークラです。

 調べてみますと、島根県の出雲空港から7時35分の始発の飛行機に乗りますと、東京羽田空港には8時55分着となっています。これを見ますと、改めて飛行機の速さが分かりますねえ。普段JRで大阪に出張する時、出発して1時間20分というと新幹線の乗換え駅である岡山まであと1時間余りの場所、やっとJR伯備(はくび)線の新見(にいみ)駅に到着する時間です、いやはや。

 閑話休題、午前8時55分に羽田に到着して祝賀会が始まる午後5時までには8時間の余裕があります。東京行はおそらくこの度が最後になると思いますので、この機会に亡父が九州福岡県の久留米の部隊から派遣を命じられた千葉陸軍戦車学校と、終戦までを過ごした千葉県の戦車第二八連隊の跡地を訪ねてみたいと考えています。

 思い起こせば昨年の1月17日、福岡県大川市で開催された大川新春家具展示会で福岡を訪れた折、父が入隊した久留米西部第四十九部隊の跡地を知ろうと久留米市役所に電話して現在は陸上自衛隊の駐屯地になっている事を知りました。早速出掛けて、当時のままの兵舎や資料館を拝見したことを思い出します。

 そして今年の2月19日、父が通った大阪の此花(このはな)商業学校と大阪市役所を訪問して当時の記録を探そうとしましたが、度重なる空襲と戦後の混乱や区域の編成替えのため、今となっては調べる術も無いことを実感しました。確かに戦前戦中の一時期、島根の田舎から上阪して夜学に通っていた青年がいて、応召されるまで梅田駅の近くの会社に勤務していたはずなのに全く手掛かりがありませんでした。生前にちゃんと聞いておけばと、この時ほど悔やんだことはありません。

 そして今回、終戦まで所属した部隊の跡地を訪ねることで、父の一応の足跡を辿る事が出来ることになります。東京空襲の度に出動して遺体の収集や瓦礫の片付けをし、東京守備隊として九十九里浜に上陸して来るであろう連合軍を迎え撃つ任務に就いていた父の部隊。父は生前、当時は連合軍は必ず九十九里浜に上陸して来ると誰もが思っていたと述懐し、「敵が上陸して戦闘が始まれば4時間で燃料切れになって全滅する」と部隊員全員が思っていたとも言っておりました。戦車同士の戦闘の場合は半日以上になる場合も多く、その途中で燃料切れになり動かなくなると、そのまま敵の標的になってしまうためだそうです。

 「それでも日本の国内で、そして自分の持ち場の戦車の中で死ねたら本望だと思っとったのう。まあ、当時は誰でもそうじゃったけどなあ」と言っていたのを思い出します。またそんな緊迫した中、「お百姓さんには申し訳ないが、スイカ泥棒もやったなあ」と笑っていました。丸ごと取ると直ぐに農家の方に分かってしまうので、父の部隊では細い竹で管を作り、それをスイカに突き刺して果汁だけを飲んでスイカの形は残すという荒業を駆使していたそうです。

 私が東京に居たのは30年程前、それも東京郊外の小金井市に住んでおりましたので全く土地勘はありません。しかし羽田から千葉へ、千葉から虎ノ門のホテルオークラへの移動時間は、迷う時間も含めて3時間も見て置けば充分でしょう。残り5時間、父親探しの旅も大詰めを迎えそうです。


【お願い】
 千葉陸軍戦車学校と戦車第二八連隊の跡地が現在どうなっているのか、また資料館などは存在するのかを御存じの方がいらっしゃいましたら、是非お知らせ下さいませ。何卒、宜しくお願い致します。




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Posted by 府中店長 at 10:24Comments(0)父親探しの旅

2009年02月21日

やっぱりなあ

 一昨日は大阪からの帰途、肉体的にも精神的にも疲れを感じ、帰宅してそのまま寝入ってしまいました。それこそ、夢を見ることもありません。しかし、昨夜はさすがに父の夢を見ました。

 実家の居間で家族が炬燵に入っていますと、障子を開けて父が入って来ました。驚いた私が「ありゃまおじいさん、どうしたんね?」と聞きますと、「うんちょっとなあ」と答えます。

「寒いけえ早う炬燵に入りんさい、何か飲むね?」
「ほんならコップでいいけえ、酒をな」
「うん分かった、おばあさん、酒チンして」
と母に頼んだところで目が覚めました。夜中の2時頃だったでしょうか。へんな言い方ですが、亡くなった父はとても元気そうでした。何か言いたかったのかなあ?

 そのまましばらく考えていましたら、以前、制服制帽で学生姿の父と祖母が、出雲大社の本殿前で撮ったと思しき写真を見たことを思い出しました。あの写真の帽子に、校章が写ってないだろうか?それとも記憶違いか?見た写真は父と母と祖母の三人で、それだと既に母と結婚している事になるなあ。う~ん、今度帰って確かめなくちゃ。それにしても俺もなあ、「何か飲む?」なんて聞かずに、「どこに行ったらお父ちゃんの事が分かるかね?」と聞いとけばなあと、誠に残念な気が致しました。反省。




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2009年02月20日

八方塞がり

 昨日、父の事を調べるために先ず訪れたのが、出身校である此花商業学校(現此花学院高等学校)です。大阪市生野区勝山南と言う場所ですが、無論私には初めての土地でした。辿り着いた学校で女性の事務の方に、父が在籍した昭和12年から16年頃の事を知りたい旨を告げたのですが……。

 しかし、結果は思っていたよりも厳しいものでした。この学校が設立されたのが昭和4年、その後戦災や二度の移転を繰り返す中で資料と呼べるものはほとんど現存していないとの事なのです。こちらの学校が正式に卒業生の名簿の作成を初めたのが昭和48年との事で、それ以前のものは全くなく、ほとんど手掛かりのない状態でした。これでは、父がこの学校を卒業した証しさえ見つけられません。約一時間ほどだったでしょうか、ご親切な事務員の方の応対を謝し、半ば茫然と学校を後にしました。

 次に私が向かったのが大阪市役所です。と申しますのも、当時此花商業学校が在った場所が東淀川区長柄中通3丁目30番と学校で伺ったのですが、現在の地名にはそれが存在せず、今のどの辺りになるのかを教えて貰おうと考えたのです。当時の資料が学校に残っていないのなら、せめてその場所を知り、出来ればそこを訪ねてみたいと思ったからです。

 しかし、この願いも直ぐには実現しません。訪ねた大阪市役所の市民局で伺ったところ、当時の東淀川区が編成されたのが昭和8年、その後二度の編成替えがあったため、当時の番地と今の番地を照合するのは大変な作業になるとの事でした。対応して下さった方の、「当時の地図が残っていれば何とか分かるかもしれません。時間はお約束できませんが、私が調べてみます。分かったらご連絡致しますから」との申し出に救われ、「何分にもお願いします」と市役所を辞しました。

 今回痛切に感じた事、それは戦争が残した傷跡です。私が訪れた両所で、対応して頂いた方の口から何度「空襲」「戦後の混乱」と言う言葉を聞いたことでしょう。空襲でほとんどのものが焼き尽くされ、戦後の混乱期がそれに拍車を掛けたのですから、当時の資料が残っていないのも当然かもしれません。そう言えばと、映画のワンシーンを思い出したのが帰りの列車の中でした。

 その映画は「砂の器」。今西刑事役の丹波哲郎さんが大阪に出張し、犯人和賀英良(配役加藤剛さん)の戸籍を調べる場面です。戸籍の紙が比較的新しいのを不審に思った今西刑事がそれを口にすると、戸籍係の人が「この辺は空襲で役所も焼けましたから」と答えます。そこで今西刑事が「それじゃあ、これは法務局の原本を写したものですか?」と尋ねるのですが、係りの人は法務局も空襲で焼けたので原本もないと答える、そんなシーンでした。

 今回の旅、ほとんど成果の上がらぬものとなりました。また実家に帰った折に新しい手掛かりを見つけられれば、そう思っています。昔から「捨てる神あれば拾う神あり」、そう申しますから。




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2009年02月09日

次回大阪行

 今月18日は大阪出張の予定です。17日の最終列車で出掛けるつもりですが、今回は翌19日に一日の休暇を貰ってある学校に行ってみようと思っています。

 そこは此花(このはな)高校と言って父が戦前に卒業した学校なのですが、昼間は働いていたそうですのでおそらく夜間部に通ったのだろうと推測しています。

 昭和12年3月、16歳の父は地元の尋常高等小学校卒業後に二年間勤めた村役場を依願退職し、上級学校への進学を目指し単身上阪します。父の書き残したものを見ますと、上阪から入学・就職までの日数は凡そ20日間余り、かなり慌しい日々であったろうと思われます。

 父の卒業した学校を今更訪れて、それが一体何になるのかとお思いの方もいらっしゃいましょうが、卒業名簿に父の名前でも見つけられたらと思っています。それとこの学校を訪れるもう一つの目的、それは父の就職した原田商事株式会社の事です。父の手記には「昭和12年4月1日、北区原田商事(株)に就職」としか書き残されていませんので全く雲を掴むような具合なのですが、何かの手掛かりでもありはしないかとこれまた期待をしているところです。

 次回の大阪出張、今から心待ちにしています。ご報告は後日。




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2008年12月25日

父の履歴書 その2

 今日は、父の軍隊時代の履歴書をご紹介します。提出年月日は昭和44年12月25日ですが、どこに提出したものかは不明です。当時の島根県知事さん名で「相違ないことを証明する」とありますので、おそらく軍人恩給受給などのために国に提出したものだと思います。

昭和17年
4月10日 二等兵 現役兵として久留米戦車第一連隊に入隊
10月10日 一等兵
12月12日  〃  千葉陸軍戦車学校に分遣を命ず
12月22日  〃  同校入校

昭和18年
8月10日 上等兵

昭和19年
7月10日  〃  軍令陸甲第七六号により戦車第二八連隊に転属

昭和20年
3月 1日 兵長
9月10日 伍長
9月10日 復員

 これを見る限り、10日付が多い事に気付きます。昔の軍隊は、何かを決めたり命令をだすのに10日という日を多く選んだのでしょうか?それともう一つ、戦争が終わった9月10日に伍長に昇進しています。おそらく、兵役の経験者の多くの方がこの時期に昇進されたのではないでしょうか。「ご苦労様でした」と言う意味合いなのかな?




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2008年12月24日

父の職歴

 この頃、父の書き残したものを目にする機会が増えました。実家に帰る度にあれこれ探し、それをコピーして持ち帰っています。

 自ら平成11年に綴った職歴を見ると、中々興味深いものがあります。父は昭和10年に地元の村の尋常高等小学校を卒業し、そのまま村役場に勤めましたが、その項の但し書きにはこう記されています。「月給8円50銭。当時60キログラム入り1俵10円80銭、米価が物価の基であった。」

 昭和12年3月、二年間勤めた村役場を依願退職し上阪、北区原田商事(株)に入社と共に此花商業高校に入学。16年3月卒業。

 昭和17年3月20日兵役のため原田商事(株)を退職、同4月10日久留米西部第49部隊に入隊。但し書きを見ますと、次男である父の入隊に際し「兄が同道、入隊を見届けてくれた」とあります。

 大阪から島根に寄り父母に別れを告げ、バンザイの声に送られて故郷の村を出る父と伯父。島根から福岡県の久留米までどうやって行ったのか?おそらく何日も掛かった事でしょう。退社した3月20日から入隊した4月10日までの約三週間は、慌しく過ぎて行った事だと思います。

 いよいよ明日入隊という夜、兄弟二人で別れの杯を交わしただろうなあ。場所は久留米の旅館か?伯父は「両親や家の事は心配せんでいい、お国のために頑張れ」と言ったのか、それとも何も言わずに涙を流したのかなあ?

 来年も1月14日と15日の両日、福岡県大川市で「大川家具新春展」が開催されます。私の宿泊予定地はこの久留米、何となく因縁を感じている昨今です。




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2008年02月15日

父の恩人

 一昨日午後2時半頃、大阪府の茨木市を訪れました。茨木市はJRで大阪駅から10分ほどの町です。この町にお住まいのある女性を訪ねて、初めての町に出掛けました。

 戦前、父は地元の村の尋常高等小学校を卒業後、約二年間村の役場に勤めました。その後、上級学校への進学を目指し単身大阪の地を踏む事になります。昼は原田商事という会社に勤め、此花商業学校の夜間部を卒業しています。

 当時16~17歳であった父は、同じ村出身のある方を頼って単身上阪したのですが、その方がどなたなのかは母も知りませんでした。それが、この茨木市にお住まいの女性の父上ではないかと教えてくれたのは親戚のおばさんです。この方にお会いして、父の当時の事が少しでも分かればと期待して新大阪から電車に乗り込みました。

 朝の好天が嘘のように、茨木市に到着すると雪が舞っていました。新大阪駅から前以ってお電話を差し上げておりましたので、お訪ねすると「家は寒いから近くでお茶でも飲みましょう」と喫茶店に案内して下さいました。

 それから約1時間半、色々なことを伺いました。父上は当初現在の出雲市にあった出雲製織という会社に就職し、その後この会社は他の三社と合併して大和紡績となるのですが、転勤で大阪に移住されたそうです。その時期は大正15年生まれのこの方が小学校の4年生の頃、「あれは確か、支那事変の少し前じゃなかったかと思いますねえ」とおっしゃいましたので、それは昭和11年頃の事のようです。とすると、父が上阪した昭和12年という時期には確かに大阪に居を構えていらっしゃった事になります。

 「父は人の面倒を見ることが好きだったみたいですよ。お酒が好きで、家にはお金がないのに人の世話をして、母は何時も泣いていましたよ(笑)。当時子供だったから良く覚えていませんが、田舎から職を求めて大阪に来る人が多かったみたいで、就職先などを探してあげたみたいです。それは戦後も一緒でしてね、八神(はかみ:父の故郷の村)からはよく人がうちの家に来ていましたよ」それを伺い、父がお世話になった方はまずこの方に間違いない、そう直感しました。

 昭和12年3月、地下足袋にゲートルを巻き制服姿で荷物を背負った少年が、夜半に家族に見送られて故郷の村を後にする。三つほど山越えをして鉄道のある町まで行き、そこから汽車を乗り継いでやっと着いた大阪駅。電報でも打っておいて大阪駅に出迎えて貰ったのか、それとも人に道を尋ねて行ったのか、懐中には如何ほどのお金を持っていたのだろう?初めて見る大都会大阪は、父の目にどう映ったのだろう?そんな事を考えていましたら、前途に希望を抱く溌剌とした少年時代の父の顔が浮かんで来るようでした。

 更に伺うと、家は既に無くなったもののご両親のお墓はまだ八神にある事、弟さんも亡くなり自分が生きている内にお墓を何とかしたいと思っている事、そして奇遇な事に亡くなったご主人は現在私の住んでいる町のご出身で、分骨したお骨をお里のお墓に収めてあることなどを伺いました。

 「近頃血圧が高く、体調が余りよくないんですよ。だけど久し振りに八神の話をして、何か元気が出たみたいです」と最後に笑っておっしゃいました。私は父がお世話になったお礼を言い、何時までもお元気でと茨木市を後にしましたが、今回の旅でまた一つ父の足跡が分かりとても有意義な出張となりました。この次は、父の勤めた原田商事、そして卒業した此花商業学校を訪ねてみたいと思っています。




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Posted by 府中店長 at 10:06Comments(0)父親探しの旅

2008年02月13日

大阪府茨木市行

 今日は大阪にいます。昨日からの大阪出張なのですが、今日は少し早めに仕事を終え、茨木市と言う初めての町に行く予定です。

 父が戦前お世話になったのではないかと思われるMさんとおっしゃる方の長女さんが茨木市にお住まいである事を最近知り、ぜひお訪ねしたいと今回の出張を楽しみにしていました。調べてみると、新大阪から茨木市まで25分程。今朝の大阪、とても良い天気です。




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Posted by 府中店長 at 09:25Comments(0)父親探しの旅

2008年01月19日

陸上自衛隊久留米駐屯地

 一昨日は荷物をまとめてチェックアウトを急ぎ、昨日は出張中に溜まった仕事に追われブログの更新が出来ませんでした。その上明日は父の一年の法要のため今晩帰省しますので、明日の更新も難しそうです。今週は皆さんのページを訪問する事も中々出来ず、申し訳ございません。

 さて大川出張の最終日、17日の3時過ぎにJR久留米駅に着きました。汽車の時間まで2時間ほどありましたので、父の入隊した久留米西部第四十九部隊の跡地はどうなっているのだろうと市役所に電話をしてみました。すると、それは自衛隊に聞いたほうがいいだろうと電話番号を教えてくれたのです。それを聞くまで、久留米に自衛隊があるとは知りませんでした。

 早速電話をして事情を話すと、広報資料館に廻すので聞いてくれとの事です。お話しをした方が「時間があればぜひお出で下さい」とおっしゃいましたので、出掛ける事にしました。

 おじゃますると、館長の栁瀬さん自らが資料館を案内して下さいました。伺うと当時日本陸軍の戦車部隊は久留米にしかなく、戦車部隊に入隊する人の殆どは久留米に集められ、三年間の教育を受けたそうです。ただ父の場合は昭和17年4月に久留米に入隊し、同じ年の12月には千葉陸軍戦車学校に移動しています。

 その資料館は、明治30年に建築された本部営舎がそのまま利用されていて、当時の連隊長室から入って一方通行で見れるようになっています。戦車部隊の資料を集めた部屋では、写真に父の姿が映っていないかと目を皿のようにして見ましたが叶いませんでした。

 見終わると栁瀬さんが「当時の兵舎が一棟だけ残っていますがご覧になりますか?」とおっしゃいましたので、是非にとお願いしました。「昭和17年の入隊なら、きっと父上もこの建物に入られた事でしょう」、そう栁瀬さんはおっしゃいます。

 隊内の敷地を車で移動し、その兵舎を見ました。中にも入れて頂きましたが、何か不思議な感動がありました。「そうかお父ちゃん、あんたはここで軍隊生活を始めたんだね。生きてるうちに一度連れて来てあげれば良かったねえ、ごめんよ」そう思いながら歩いていましたが、敷地内に桜の木が沢山あるのにも驚きました。栁瀬さんは、「辛い軍隊生活で故郷を偲ぶもの、それが桜だったんでしょうかねえ。父上もこの桜をご覧にって、島根を懐かしんだ事でしょう」

 約一時間、栁瀬さんのご好意で当時の様子を詳しく知る事が出来ました。明日、お墓に報告したいと思います。何時の日か、今度は千葉の陸軍戦車学校、そして終戦まで所属した戦車第二八連隊の跡地を訪ねてみたいと思っています。




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Posted by 府中店長 at 09:42Comments(0)父親探しの旅

2008年01月14日

久留米行


 明後日から、福岡県大川市で【大川家具新春展】が開催されます。私も明日から福岡に出張する予定ですが、途中時間が許せば、久留米市に寄ってみたいと思っています。

 【久留米西武第四十九部隊】、これは父が昭和十七年に入隊した部隊です。その跡地は今どうなっているのか、ぜひ見てみたいと思います。父の足跡を訪ねる旅の、これが第一歩になりそうです。




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Posted by 府中店長 at 10:51Comments(0)父親探しの旅

2007年12月20日

父親探しの旅 その2

 若き日の父が大阪でどんな暮らしをしていたのか、それを知りたいと思ってから三月が経ちました。その間、二度の大阪出張があり少しずつ調べてみましたが、何せ戦前のことでもあり中々有力な情報に出会えないでいました。

 ところが昨日、墓参に帰った故郷で親戚のおばさんから耳寄りな話しが聞けました。生まれた村の尋常高等小学校を卒業し一年間村役場で働いた父は、上級学校への進学を目指し、誰かを頼って単身上阪しました。その方の存在は母も知らず、私が生前に父からそんな話しを聞いた事があると言う程度の雲を掴むような話だったのですが、その頼った方はおそらくこの人ではないかと教えてくれたのです。

 その方は父の生まれた村から大和紡績に就職しかなりの出世をされ、戦前は大阪で暮らしていらっしゃったそうです。残念ながら戦後間もなく大阪で亡くなり、今は故郷の家も廃屋になっているとの事でした。「その人の縁者は、今何処におられるの?」と聞きますと、長男さんは戦後岐阜の方へ行かれたが亡くなり、今は故郷との縁も切れたと聞きました。確かその長男さんの奥様はご健在で、家族と共に今でも岐阜に住んでいらっしゃるはずとの事です。

 実は昨日、故郷の役場で父の戸籍謄本などを調べたらある程度の事が分かるだろうと出掛けたのですが、窓口に居る同級生から、そんな昔の事は分からないと聞かされ落胆をしておりました。住所変更をすれば戸籍か何かに残っているだろうと簡単に考えていたのですが、「そりゃ無理だねえ」と言われがっかりしていたのです。

 そこに降って湧いたような貴重な話を聞け、何となく前途に望みが出て参りました。昔を知る人達が少なくなった今、この情報は父の姿を追う最後のチャンスとなりそうです。気忙しい年末ですが今年中にあと一つか二つ手を打ち、岐阜にお住まいであろうその縁者の方達のお住まいを調べてみたいと思っています。墓の前に立ち、「おとうちゃん、あんたも力を貸してごしないや」と語りかけ夕方帰途に着きましたが、とても有意義な一日となりました。




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Posted by 府中店長 at 10:58Comments(0)父親探しの旅

2007年11月02日

父探しの旅

 この頃思う事、それは若き日の父の事です。戦前、草深い田舎の農家の次男であった父は、大学への進学を夢見て単身大阪に行ったそうです。大阪を目指したのは、同じ村出身の方が大阪に居ると言うだけの、はなはだ心もとない理由によるものです。

 何本も汽車を乗り継いで大阪に着いた父は、その方のお世話である商事会社に勤める事になります。昼は会社勤め、夜は夜間の大学に通って青春時代を過ごしたようです。その後召集され九州久留米の陸軍に入隊し、千葉県で東京守備隊として終戦を迎えました。空襲の後片付けで何度も都内に出動したそうですが、夥しい死体にも驚かなくなるほど感覚が麻痺していたと聞いたことがあります。

 そんな父の若い日の生活、その中でも、私は大阪での父を知りたいと思うようになりました。何処で暮らし、どんな会社に勤め、その会社は何処にあったのか?たまには三波春夫さんの「チャンチキおけさ」の唄のように、屋台で安酒でも飲んだのだろうか?父はこの唄が好きで、音痴ではありますが酔うと良く口ずさんでいました。私も父譲りの音痴ですが、臨終にはこの唄を歌ってあげました。

 今度の大阪出張ではそんな父の足跡を訪ねてみたい、そう思っています。勤めていた会社、今でもあるんだろうか?通勤通学には電車に乗ったのかな、それとも自転車?それと父がお世話になった方のお子さんかお孫さんの消息が分かり、お会いしてお礼の一言でも申し上げられたらと、そんな事を考えているこの頃です。




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