2009年10月28日
まとめ
今日は定休日ですので、先日東京の防衛研究所で調べた事をゆっくりとまとめてみたいと思います。
父が久留米の戦車第1連隊に入隊したのが昭和17年の4月10日、21歳の時でした。その頃第1連隊の主力部隊はシンガポール占領やビルマ侵攻作戦等に従軍して大陸に展開し、連隊はその後満州に駐屯しました。そしてこの部隊は20年3月に本土防衛の任を受け同年4月9日に新潟港着、7月10日に栃木県佐野に移駐して終戦を迎えます。
一方久留米の留守部隊は、第一連隊の補充部隊として新たに戦車18連隊を編成しました。これが昭和17年6月24日の事で、この中に父の所属した久留米西部第49部隊があったと思われます。この18連隊は後に九州防衛の任に就き、宮崎県綾町で終戦を迎えます。
本来久留米の戦車部隊に入隊した兵隊さんは三年間の教育を受けてから実戦部隊に配属されていたそうですが、父の場合は入隊8ヶ月後の昭和17年12月12日に慌しく千葉戦車学校に分遣を命じられ、同22日に入校しています。
父が入隊した昭和17年を振り返れば、6月5日にミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊が壊滅的な打撃を受け、8月7日にはガダルカナル島に米軍が上陸して日本軍の消耗戦が始まった年に当たります。おそらくこの頃から「戦車無き戦車部隊」の苦闘が始まり、前線では補充戦車の到着を今か今かと待ち望んでいた事でしょう。しかし送ろうにも戦車が無い、数少ない戦車を輸送しようにも制空制海何れも連合軍に支配されつつある状況ではそれもままならなかったと思います。
この様に戦況が徐々に悪くなって行った昭和17年12月、千葉陸軍戦車学校内に少年戦車兵学校が開校し、少年志願兵が次々と入校したそうです。父はこの兵学校の開校と時を同じくして分遣を命じられたことになるのですが、自らも学び、また少年兵への指導的な役割を担っての分遣であったのかもしれません。4月10日に二等兵として入隊した父は、同年10月10日に一等兵となり、そして12月に千葉へと着任しました。この戦車学校は下士官養成学校として昭和11年に開校されたそうですが、敷地面積は約7万坪もあり、戦車設備に関する基礎的な学術や戦術、整備を学ぶ為の学校でした。
そして昭和19年7月6日、本土決戦に必要な戦車部隊として、戦車第28連隊がこの戦車学校の教導隊を基幹に編成されました。その前年、昭和18年8月10日に上等兵となっていた父は、編成とほぼ同時の7月10日にこの28連隊に転属となっています。この部隊は本土防衛の内、敵軍の九十九里浜への上陸を想定して編成された部隊でしたので、防衛の為の壕や陣地構築の任に当たったようです。また首都圏への空襲が激しくなると、亡くなった方や瓦礫の処理に頻繁に出動していたと父に聞いたことがあります。
この昭和19年、陸軍の軍需動員計画の戦車整備数は末期的な状況になっています。軽戦車・中戦車・水陸両用戦車・砲戦車何れもゼロ、四式中戦車・五式中戦車・10糎カノン砲戦車各5両、装甲兵車400両。調べた本の筆者は、こう述べています。
『軍需動員で見る限り、日本戦車部隊はこのあたりで「生涯」を終わっていた。こんな戦力で、アメリカ軍の機甲戦力とまともにぶつかる本土決戦にならなくて幸いであった。ともあれ、日本に戦車隊が出来て20年余、機甲兵種生まれて僅か4年、日本戦車部隊は見る影もない姿に転落して終った』。父の言っていた、「戦えば即刻全滅」の言葉を実感致しました。
昭和20年3月1日父は兵長となり、幸いな事に本土決戦のないまま終戦を迎えました。同9月1日に復員命令が出され、9月15日に故郷に復員しています。この間、9月10日に伍長に昇進していますが、おそらくこの時期にはほとんどの兵隊さんが一階級特進となった事でしょう。
こうして父の軍歴を調べてみて色々な事が分かりましたが、21歳の青年がもう直ぐ25歳になろうとする3年余りの年月を軍隊で過ごし様々な体験から一体何を思ったのか、今となれば確かめる術もありません。只、生前口にしたことのある「戦車の中で死ねたら本望だと思っとったなあ」の言葉に、当時の世相を垣間見るだけです。
今回の旅は、大変収穫のあるものとなりました。しかし、果たしてそれを父が喜んでいるのかどうか、考えても答えは見つかりません。「余計なことを」と、笑っている父の顔が浮かんで参ります。
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父が久留米の戦車第1連隊に入隊したのが昭和17年の4月10日、21歳の時でした。その頃第1連隊の主力部隊はシンガポール占領やビルマ侵攻作戦等に従軍して大陸に展開し、連隊はその後満州に駐屯しました。そしてこの部隊は20年3月に本土防衛の任を受け同年4月9日に新潟港着、7月10日に栃木県佐野に移駐して終戦を迎えます。
一方久留米の留守部隊は、第一連隊の補充部隊として新たに戦車18連隊を編成しました。これが昭和17年6月24日の事で、この中に父の所属した久留米西部第49部隊があったと思われます。この18連隊は後に九州防衛の任に就き、宮崎県綾町で終戦を迎えます。
本来久留米の戦車部隊に入隊した兵隊さんは三年間の教育を受けてから実戦部隊に配属されていたそうですが、父の場合は入隊8ヶ月後の昭和17年12月12日に慌しく千葉戦車学校に分遣を命じられ、同22日に入校しています。
父が入隊した昭和17年を振り返れば、6月5日にミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊が壊滅的な打撃を受け、8月7日にはガダルカナル島に米軍が上陸して日本軍の消耗戦が始まった年に当たります。おそらくこの頃から「戦車無き戦車部隊」の苦闘が始まり、前線では補充戦車の到着を今か今かと待ち望んでいた事でしょう。しかし送ろうにも戦車が無い、数少ない戦車を輸送しようにも制空制海何れも連合軍に支配されつつある状況ではそれもままならなかったと思います。
この様に戦況が徐々に悪くなって行った昭和17年12月、千葉陸軍戦車学校内に少年戦車兵学校が開校し、少年志願兵が次々と入校したそうです。父はこの兵学校の開校と時を同じくして分遣を命じられたことになるのですが、自らも学び、また少年兵への指導的な役割を担っての分遣であったのかもしれません。4月10日に二等兵として入隊した父は、同年10月10日に一等兵となり、そして12月に千葉へと着任しました。この戦車学校は下士官養成学校として昭和11年に開校されたそうですが、敷地面積は約7万坪もあり、戦車設備に関する基礎的な学術や戦術、整備を学ぶ為の学校でした。
そして昭和19年7月6日、本土決戦に必要な戦車部隊として、戦車第28連隊がこの戦車学校の教導隊を基幹に編成されました。その前年、昭和18年8月10日に上等兵となっていた父は、編成とほぼ同時の7月10日にこの28連隊に転属となっています。この部隊は本土防衛の内、敵軍の九十九里浜への上陸を想定して編成された部隊でしたので、防衛の為の壕や陣地構築の任に当たったようです。また首都圏への空襲が激しくなると、亡くなった方や瓦礫の処理に頻繁に出動していたと父に聞いたことがあります。
この昭和19年、陸軍の軍需動員計画の戦車整備数は末期的な状況になっています。軽戦車・中戦車・水陸両用戦車・砲戦車何れもゼロ、四式中戦車・五式中戦車・10糎カノン砲戦車各5両、装甲兵車400両。調べた本の筆者は、こう述べています。
『軍需動員で見る限り、日本戦車部隊はこのあたりで「生涯」を終わっていた。こんな戦力で、アメリカ軍の機甲戦力とまともにぶつかる本土決戦にならなくて幸いであった。ともあれ、日本に戦車隊が出来て20年余、機甲兵種生まれて僅か4年、日本戦車部隊は見る影もない姿に転落して終った』。父の言っていた、「戦えば即刻全滅」の言葉を実感致しました。
昭和20年3月1日父は兵長となり、幸いな事に本土決戦のないまま終戦を迎えました。同9月1日に復員命令が出され、9月15日に故郷に復員しています。この間、9月10日に伍長に昇進していますが、おそらくこの時期にはほとんどの兵隊さんが一階級特進となった事でしょう。
こうして父の軍歴を調べてみて色々な事が分かりましたが、21歳の青年がもう直ぐ25歳になろうとする3年余りの年月を軍隊で過ごし様々な体験から一体何を思ったのか、今となれば確かめる術もありません。只、生前口にしたことのある「戦車の中で死ねたら本望だと思っとったなあ」の言葉に、当時の世相を垣間見るだけです。
今回の旅は、大変収穫のあるものとなりました。しかし、果たしてそれを父が喜んでいるのかどうか、考えても答えは見つかりません。「余計なことを」と、笑っている父の顔が浮かんで参ります。
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Posted by 府中店長 at 13:14│Comments(0)
│父親探しの旅