2020年08月01日
時刻表
友人から戦前の時刻表の復刻版を借りていますが、その中に昭和17年(1942年)11月1日発行のものがあります。

そこに掲載されている路線図を見ますと、当時、既に石見江津駅と浜原駅間に鉄道が走っていたことが確認出来ます。

地図の一番左端です
この昭和17年4月10日、21歳の父は応召して戦車第一連隊久留米西部第49部隊に入隊しました。その時父は大阪に居住していたのですが兵役のため退職、大阪から久留米へ向かう途中に生まれ故郷に立ち寄ったと記しています。
時刻表によれば当時石見江津~浜原間は何と7往復、14便もの列車が走っていました。そして父の実家は山奥の一軒家、一山超えたら浜原の町なのです。
入隊には伯父が付き添ったそうですが、出発の朝、集落の人達のバンザイに送られ父と伯父は徒歩で浜原へ向ったのでしょう。親戚の何人かは浜原の駅まで見送りに行ったのかもしれません。
そしてこの昭和17年6月5日はミッドウェー海戦、日本海軍機動部隊が壊滅的な打撃を受け、以後制海権を失うことになります。(この項続く)
そこに掲載されている路線図を見ますと、当時、既に石見江津駅と浜原駅間に鉄道が走っていたことが確認出来ます。
地図の一番左端です
この昭和17年4月10日、21歳の父は応召して戦車第一連隊久留米西部第49部隊に入隊しました。その時父は大阪に居住していたのですが兵役のため退職、大阪から久留米へ向かう途中に生まれ故郷に立ち寄ったと記しています。
時刻表によれば当時石見江津~浜原間は何と7往復、14便もの列車が走っていました。そして父の実家は山奥の一軒家、一山超えたら浜原の町なのです。
入隊には伯父が付き添ったそうですが、出発の朝、集落の人達のバンザイに送られ父と伯父は徒歩で浜原へ向ったのでしょう。親戚の何人かは浜原の駅まで見送りに行ったのかもしれません。
そしてこの昭和17年6月5日はミッドウェー海戦、日本海軍機動部隊が壊滅的な打撃を受け、以後制海権を失うことになります。(この項続く)
Posted by 府中店長 at 08:47│Comments(0)
│父親探しの旅