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2022年11月30日

父の誕生日

 本日、11 月 30 日は父の誕生日です。大正九年( 1920 年)生まれですから生きていれば 102 歳、折に触れ「宮様と誕生日が同じだけえの」と申しておりました。

 父は昭和 12 年に 16 歳で単身上阪し、此花商業学校(現 大阪偕星学園)の夜間部に通いながら北区に在った商事会社で働いていました。昭和 16 年、此花商業を卒業した父は関西大学の夜間部に進学した様ですが、翌昭和 17 年、兵役のため会社も大学も辞めて福岡県久留米に在った戦車第一連隊久留米西部第 49 部隊に入隊しました。

 当時日本陸軍の戦車部隊は久留米にしかなく、戦車部隊に入隊する人の殆どは久留米に集められ三年間の教育を受けた後に実戦部隊に配属になったそうです。しかし父の場合は戦局の悪化からか、昭和17年4月に入隊し同じ年の12月には慌ただしく千葉陸軍戦車学校に移動しています。

 父はその後本土防衛を担う戦車第二八連隊に転属となり、敵が九十九里浜に上陸して来るとの予測から塹壕や陣地構築の任に当たった様です。父の言葉によりますと当時東京守備隊の戦車は 2 時間余りの戦闘に耐え得るほどしか燃料が無く、それを過ぎると敵の狙い撃ちを受け「忽ち全滅していただろう」とのことでした。また戦車自体にも能力に大きな差が有り、操縦兵であった父は「操縦席で、操縦桿を握って死ねたら本望と思っとった」とも申しておりました。

 幸い連合軍の本土上陸は無く、24 歳の夏に終戦となり 9 月に島根へ復員しました。 父は、21 歳から 24 歳まで軍隊生活を経験した訳ですが、その間の事を家族には殆ど話しませんでしたし、母や私達の記憶でも、いわゆる戦友会的な催しには一度も参加していないんじゃないかと思います。

 亡くなってから父の足跡を辿ろうとしましたがそれは容易ではなく、父が通った此花商業学校の当時の所在地(東淀川区長柄中通 3 丁目 30 番地)が今の何処に当たるのかすら確定することが出来ませんでした。それは終戦と同時に軍の資料の大半が焼却処分された事、そして度重なる空襲で大阪市を始め多くの都市が灰燼に帰したからなのです。

 国破れて山河ありとか、父を思い、英霊に哀悼の誠を捧げる今朝です。


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Posted by 府中店長 at 10:00│Comments(0)店長日記
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