2016年10月29日
減少一途
本ブログで何度か申し上げましたが、島根県民歌「薄紫の山脈(やまなみ)」の歌詞の中に『九十万の県民の』との一節がございます。この歌は昭和26年、サンフランシスコ講和条約の締結を記念して県民歌として制定されたのですがその頃は島根に90万の人々が暮していたのです。
私が生まれたのは5年後の昭和31年(1956年)、それから僅か60年、島根県の人口が69万人を割ったとの報道です。
しかも5年間で2万3千人の減少とか、飯南町も5千人を切って4948人となりました。
飯南町は平成の大合併により故郷頓原町と赤来町が合併して出来た町ですが、私が子供の頃、頓原だけでも6千人近い人が暮していたと記憶しています。
飯南町のホームページで確認しますと、昭和35年の国勢調査では当時の頓原町と赤来町を合わせて1万3千人の人口と記されています。それが今ではたった4948人、8千人も減って県内でも有数の超過疎地となってしまいました。
昭和38年のいわゆるサンパチ豪雪、高度成長期に伴う都会への人口流出など様々な要因があったのでしょうが、それにしてもこれほど人口が減少するとは思いもよりませんでした。
あと20年、30年も経つと頓原は無くなってしまうのではないか?
『故郷消滅』、そんな言葉が頭を過ぎる今朝でございます。
私が生まれたのは5年後の昭和31年(1956年)、それから僅か60年、島根県の人口が69万人を割ったとの報道です。
しかも5年間で2万3千人の減少とか、飯南町も5千人を切って4948人となりました。
飯南町は平成の大合併により故郷頓原町と赤来町が合併して出来た町ですが、私が子供の頃、頓原だけでも6千人近い人が暮していたと記憶しています。
飯南町のホームページで確認しますと、昭和35年の国勢調査では当時の頓原町と赤来町を合わせて1万3千人の人口と記されています。それが今ではたった4948人、8千人も減って県内でも有数の超過疎地となってしまいました。
昭和38年のいわゆるサンパチ豪雪、高度成長期に伴う都会への人口流出など様々な要因があったのでしょうが、それにしてもこれほど人口が減少するとは思いもよりませんでした。
あと20年、30年も経つと頓原は無くなってしまうのではないか?
『故郷消滅』、そんな言葉が頭を過ぎる今朝でございます。
Posted by 府中店長 at 08:35│Comments(0)
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