2018年11月30日
大正九年生まれ
今日11月30日は亡き父の誕生日、生きていれば98歳、生前「ワシは秋篠宮様と誕生日が同じ」と嬉しそうに話していた父でしたが亡くなって早や12年の歳月が流れようとしています。
父は尋常高等小学校卒業後村役場に奉職、その2年後、昭和12年3月、16歳の時に単身商都大阪へ向います。
同郷の方のお世話で北区にあった商事会社に勤務する傍ら此花商業学校(現大阪偕星学園高等学校)の夜間部に入校、昭和16年、二十歳の時に卒業し関西大学の夜間部に進みました。
そして翌昭和17年3月、兵役により21歳で退職し福岡県の戦車第一連隊久留米西部第49部隊に入隊しています。私は平成20年1月17日、現在は陸上自衛隊久留米駐屯地となっているこの地を訪ねましたが、敷地内に多くの桜の木があることを不思議に思い案内して頂いた自衛官の方にその訳を何気なく聞いてみました。
するとその方は「辛い軍隊生活で故郷を偲ぶもの、それが桜だったのでしょう。父上もこの桜をご覧になり、島根を懐かしまれたのではないでしょうか」と仰り、そのお言葉に不覚にも目頭を熱くしたことを思い出します。
父が入隊した昭和17年を振り返れば、6月5日にミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊が壊滅的な打撃を受け、8月7日にはガダルカナル島に米軍が上陸して日本軍の消耗戦が始まった年に当たります。
戦況が日々悪化する中、同年12月には千葉陸軍戦車学校への分遣を命じられ千葉へ向います。昭和19年、この戦車学校の教導隊を基幹に本土決戦のための戦車第二八部隊が編成され、それと同時に父もこの部隊に転属しています。
そしてこの昭和19年7月にはサイパンが陥落、日本軍は制空権を失い、以後国土は空襲に晒されることになります。父の居た東京守備隊の二八部隊は再三に渡り空襲の後片付けに東京へ派遣されたと聞いたことがございますが、その悲惨さ故か、父は詳しく語ろうとは致しませんでした。
本土防衛、それは九十九里浜へ上陸して来るであろう連合軍の戦車と二八部隊の決戦となるはずでしたが何せ戦車が少ない、その上燃料が足りない、本来戦車同士の戦いの決着には数時間を要するものだそうですが日本軍の戦車は2時間余りしか燃料が無く、「戦えば即刻全滅」であったと父は述懐しておりました。
それでも戦車部隊として戦車の中で、父は操縦士でしたので「操縦桿を握って死ねれば本望」と思っていたようでございます。戦車部隊でも乗る戦車が無い兵隊さんは肉弾戦、しかし遮る物とて無い九十九里浜、「まあ十中八九は死ぬと思っとった」との父の言葉は当時の兵隊さんの偽らざる心境だったことでございましょう。
そして終戦、誰もが確実視していた九十九里浜への連合軍の上陸は無く、父は昭和20年9月15日、24歳の時に復員し故郷で一生を終ることになりました。
戦争が無ければ或いは父は大阪の地で生涯を過していたかもしれず、また終戦が延び敵が上陸していたら父も24歳で戦火に散ったかもしれず、そうなれば母と出合うことも無く私が生まれることもなかったことでありましょう。
父の誕生日に当たり、私なりに綴った父の年表に目を通し、改めて人生の深淵を垣間見る思いが致しております。
父は尋常高等小学校卒業後村役場に奉職、その2年後、昭和12年3月、16歳の時に単身商都大阪へ向います。
同郷の方のお世話で北区にあった商事会社に勤務する傍ら此花商業学校(現大阪偕星学園高等学校)の夜間部に入校、昭和16年、二十歳の時に卒業し関西大学の夜間部に進みました。
そして翌昭和17年3月、兵役により21歳で退職し福岡県の戦車第一連隊久留米西部第49部隊に入隊しています。私は平成20年1月17日、現在は陸上自衛隊久留米駐屯地となっているこの地を訪ねましたが、敷地内に多くの桜の木があることを不思議に思い案内して頂いた自衛官の方にその訳を何気なく聞いてみました。
するとその方は「辛い軍隊生活で故郷を偲ぶもの、それが桜だったのでしょう。父上もこの桜をご覧になり、島根を懐かしまれたのではないでしょうか」と仰り、そのお言葉に不覚にも目頭を熱くしたことを思い出します。
父が入隊した昭和17年を振り返れば、6月5日にミッドウェー海戦で日本海軍機動部隊が壊滅的な打撃を受け、8月7日にはガダルカナル島に米軍が上陸して日本軍の消耗戦が始まった年に当たります。
戦況が日々悪化する中、同年12月には千葉陸軍戦車学校への分遣を命じられ千葉へ向います。昭和19年、この戦車学校の教導隊を基幹に本土決戦のための戦車第二八部隊が編成され、それと同時に父もこの部隊に転属しています。
そしてこの昭和19年7月にはサイパンが陥落、日本軍は制空権を失い、以後国土は空襲に晒されることになります。父の居た東京守備隊の二八部隊は再三に渡り空襲の後片付けに東京へ派遣されたと聞いたことがございますが、その悲惨さ故か、父は詳しく語ろうとは致しませんでした。
本土防衛、それは九十九里浜へ上陸して来るであろう連合軍の戦車と二八部隊の決戦となるはずでしたが何せ戦車が少ない、その上燃料が足りない、本来戦車同士の戦いの決着には数時間を要するものだそうですが日本軍の戦車は2時間余りしか燃料が無く、「戦えば即刻全滅」であったと父は述懐しておりました。
それでも戦車部隊として戦車の中で、父は操縦士でしたので「操縦桿を握って死ねれば本望」と思っていたようでございます。戦車部隊でも乗る戦車が無い兵隊さんは肉弾戦、しかし遮る物とて無い九十九里浜、「まあ十中八九は死ぬと思っとった」との父の言葉は当時の兵隊さんの偽らざる心境だったことでございましょう。
そして終戦、誰もが確実視していた九十九里浜への連合軍の上陸は無く、父は昭和20年9月15日、24歳の時に復員し故郷で一生を終ることになりました。
戦争が無ければ或いは父は大阪の地で生涯を過していたかもしれず、また終戦が延び敵が上陸していたら父も24歳で戦火に散ったかもしれず、そうなれば母と出合うことも無く私が生まれることもなかったことでありましょう。
父の誕生日に当たり、私なりに綴った父の年表に目を通し、改めて人生の深淵を垣間見る思いが致しております。
Posted by 府中店長 at 08:30│Comments(0)
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