2016年10月04日
ミスターカープ
広島商業から法政大学へとアマ球界のエリートコースを歩まれカープ入団後は弱小時代の四番打者としてチームを支えられた山本一義さん、私は憧れと尊敬の念を込めて「かずよっさん」と呼ばせて頂いておりました。その「かずよっさん」の訃報、今朝はネットを食い入る様に見つめておりました。
『プロ野球広島の外野手として活躍し、ロッテで監督を務めた山本一義氏が9月17日午後9時4分、尿管がんのため広島市の病院で死去した。78歳。広島市出身。家族葬が営まれた。
広島商高から法大を経て1961年、広島入団。タイトルこそ縁がなかったが、低迷するチームを左の巧打者、4番として引っ張った。広島がリーグ初優勝した75年限りで引退。ベストナイン2度。オールスター戦出場5度。引退後は広島などでコーチを務め、ロッテで82年から2シーズン指揮を執った。その後も南海(現ソフトバンク)、広島でコーチを歴任した。
現役時代の通算成績は15年で1594試合に出場し、1308安打、171本塁打、655打点、打率2割7分。
今季25年ぶりにリーグ優勝した広島の盛り上がりに配慮した故人の意向もあり、約半月後の公表となった。松田元球団オーナーは「残念。プレーヤーとしては美しいスイングができる人で、打撃コーチとしては論理的に教えるコーチだった。厳しさと優しさがあり、尊敬される人だった」としのんだ。』
9月10日のリーグ優勝から一週間後の旅立ち、私達の年代のカープファンにとり打で森永勝也さんと山本一義さん、投で安仁屋宗八さんと外木場義郎さん、何れ劣らぬ大スターでございました。
森永さんは若くして鬼籍に入られこのたび山本さんも、おそらく今頃は長谷川良平さん、金山次郎さん、三村敏之達と共に「今年のカープは良うやったのぉ」などと天国でカープ談義に花を咲かせていらっしゃることでしょう。
昭和50年(1975年)、カープ初優勝の年に『カープ選手数え唄』という曲が出来ました。私が一番好きだった「かずよっさん」、その十番の歌詞を惜別に。
♪十とせ とことんバットで生きて来た
カズさんほんまのいぶし銀
そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね~♪
さようならミスターカープ、合掌。
『プロ野球広島の外野手として活躍し、ロッテで監督を務めた山本一義氏が9月17日午後9時4分、尿管がんのため広島市の病院で死去した。78歳。広島市出身。家族葬が営まれた。
広島商高から法大を経て1961年、広島入団。タイトルこそ縁がなかったが、低迷するチームを左の巧打者、4番として引っ張った。広島がリーグ初優勝した75年限りで引退。ベストナイン2度。オールスター戦出場5度。引退後は広島などでコーチを務め、ロッテで82年から2シーズン指揮を執った。その後も南海(現ソフトバンク)、広島でコーチを歴任した。
現役時代の通算成績は15年で1594試合に出場し、1308安打、171本塁打、655打点、打率2割7分。
今季25年ぶりにリーグ優勝した広島の盛り上がりに配慮した故人の意向もあり、約半月後の公表となった。松田元球団オーナーは「残念。プレーヤーとしては美しいスイングができる人で、打撃コーチとしては論理的に教えるコーチだった。厳しさと優しさがあり、尊敬される人だった」としのんだ。』
9月10日のリーグ優勝から一週間後の旅立ち、私達の年代のカープファンにとり打で森永勝也さんと山本一義さん、投で安仁屋宗八さんと外木場義郎さん、何れ劣らぬ大スターでございました。
森永さんは若くして鬼籍に入られこのたび山本さんも、おそらく今頃は長谷川良平さん、金山次郎さん、三村敏之達と共に「今年のカープは良うやったのぉ」などと天国でカープ談義に花を咲かせていらっしゃることでしょう。
昭和50年(1975年)、カープ初優勝の年に『カープ選手数え唄』という曲が出来ました。私が一番好きだった「かずよっさん」、その十番の歌詞を惜別に。
♪十とせ とことんバットで生きて来た
カズさんほんまのいぶし銀
そいつぁ豪気だね そいつぁ豪気だね~♪
さようならミスターカープ、合掌。
Posted by 府中店長 at 09:15│Comments(0)
│広島東洋カープ