2017年07月02日
知将の旅立ち
上田利治さんが逝かれました。
選手としての能力と言うより将来の指導者としての力量を見込まれカープに入団、物の本によりますと昭和30年代のカープに大卒の選手が入団するのは非常に稀なケース、それだけ上田さんの野球頭脳に対するカープフロントの評価が高かったことが伺えます。
一体にプロ野球の監督はたとえそれが二軍監督であっても現役の時に名選手であった方が多いのですが、カープ入団から僅か3年で引退した上田さんは決して名選手ではありませんでした。
因みに現在カープの二軍監督を務めている水本勝巳さんは捕手としてカープにテスト入団、一軍出場の経験が無いまま2年で引退、その後ブルペン捕手として長らくチームに貢献されて来た人物です。
その無名な二軍監督が次々と若鯉を一軍へと送り込んでいる現状を見る時、上田さん同様、『名選手必ずしも名監督に非ず』を地で行く知将と言えそうです。
さて昭和50年(1975年)の日本シリーズ、リーグ初優勝を成し遂げたカープが挑んだのが常勝阪急ブレーブス、阪急の指揮を執ったのが上田さんでした。
結果は0勝4敗2分、カープは全く歯が立ちませんでした。ともかく新人の山口高志投手の球がとてつもなく速く、頼みの衣笠選手などは空振りのオンパレード、「阪急強し」の感を深くしたものでございます。
その阪急ベンチにどっしりと構える上田さん、40年以上経った今でもその雄姿を忘れる事はありません。正に知将、カープ出身者としては古葉竹識さんと共に名監督でございました。
満80歳での旅立ちにご冥福を祈るのみ、合掌。
選手としての能力と言うより将来の指導者としての力量を見込まれカープに入団、物の本によりますと昭和30年代のカープに大卒の選手が入団するのは非常に稀なケース、それだけ上田さんの野球頭脳に対するカープフロントの評価が高かったことが伺えます。
一体にプロ野球の監督はたとえそれが二軍監督であっても現役の時に名選手であった方が多いのですが、カープ入団から僅か3年で引退した上田さんは決して名選手ではありませんでした。
因みに現在カープの二軍監督を務めている水本勝巳さんは捕手としてカープにテスト入団、一軍出場の経験が無いまま2年で引退、その後ブルペン捕手として長らくチームに貢献されて来た人物です。
その無名な二軍監督が次々と若鯉を一軍へと送り込んでいる現状を見る時、上田さん同様、『名選手必ずしも名監督に非ず』を地で行く知将と言えそうです。
さて昭和50年(1975年)の日本シリーズ、リーグ初優勝を成し遂げたカープが挑んだのが常勝阪急ブレーブス、阪急の指揮を執ったのが上田さんでした。
結果は0勝4敗2分、カープは全く歯が立ちませんでした。ともかく新人の山口高志投手の球がとてつもなく速く、頼みの衣笠選手などは空振りのオンパレード、「阪急強し」の感を深くしたものでございます。
その阪急ベンチにどっしりと構える上田さん、40年以上経った今でもその雄姿を忘れる事はありません。正に知将、カープ出身者としては古葉竹識さんと共に名監督でございました。
満80歳での旅立ちにご冥福を祈るのみ、合掌。